「〇〇くんが倒れた家は、俺の家です。彼が言わずにいたことを俺から言っていいのかわかりませんが、一緒に住んでいました。必要なものは俺が持っていきます。よければ泊っていただいてもかまいません」
とにかくつながっておく
妹は明らかに「何言ってんのこいつ」と思っているであろう表情をしました。
彼氏を取り巻く状況を、なるべく刺激の少ない言葉で説明したつもりでしたが、今思い出しても直接的に過ぎることを言ったなと思います。父親は腕を組んで、一瞬何か言いかけて口をつぐみ、改めて俺を見てこう言いました。
「最初に息子が体調を崩した時、車で病院へ連れて行ってくれたのは君ですか」
去年の1月3日の三が日に、彼氏は初めて体調を崩しました。そして午前4時に、救急車を呼んでほしいと頼んできたのです。歩けるというので車で病院に連れて行った時のことを、彼氏は父親に話していたようでした。
「その節は息子がお世話になりました」
コロナ禍の救命病棟は、一般病棟以上に面会が難しく、この時点で彼氏は意識が不明瞭なまま。自分の息子の安否も直接確かめられない中で、突然出てきた俺の存在に戸惑っていることは明白でした。何を言っていいのかわからなかったのかもしれません。その時、妹が父親の腕を強く引いて、病棟から出ようと促しました。彼女の横顔には、俺を不快そうに睨めつける目がありました。
「待ってください」
ここで途切れてしまうと、二度とつながることができないかもしれない。俺にできたのは、転びそうになる父親の上体を支えて、その手に無理くり名刺を握らせて「何かあったらいつでも連絡ください」と言い添えることだけでした。すぐに、二人は病棟を出てしまいました。
明日の病棟マップに彼氏の名前はあるのか
俺は病棟師長から簡単な病態を確認して、病棟を出ました。すでに日が落ちていて、誰もいない更衣室はひんやりしています。退勤すると、当然電子カルテをチェックできません。
翌朝出勤して病棟マップを見た時、不自然な時間に退院している患者氏名を見て、看取りがあったことを知る……、それはよくあることでした。
それがもし彼氏の名前だったら?
もし夜間に急変が起こって、人工呼吸器が装着されたら?そして急変が起こっても、当然俺には連絡は来ない……。
→仲の良い看護師に頼むか?いや、そんな私的な依頼はしたくない……。
明くる日の衝撃を恐れる思いから、俺は脱いだ白衣を何度もぐるぐると丸めたり四角くたたんだりしながら、簡易ソファにどっかりと座って立ち上がれずに、しばらく沈み込んでいたのです。
「お互いに何かあったら開ける箱」を開ける
動揺が運転を誤らせるのではないかという不安のまま、車のハンドルを握りました。それでも、もしかしたらいつも以上に無心に、円滑な運転だったかもしれません。いつもの道を、いつものように帰りました。
自宅に帰って手を洗い、猫たちにご飯をあげて、背広を脱ぎ、いつものように帰宅後のルーティンを行いました。そして浴槽に湯を溜めて、火照るくらい体を温めながら、ぼんやりとこれからすることを考えました。それは覚悟を必要とすることです。
湯船から出て水気を拭き取り、猫たちにおやつをあげながら、俺は定位置にある彼氏の財布を開き、健康保険証を取り出しました。そこには当たり前ですが見慣れた彼氏の名前が記載されており、現実感がないままにカバンに突っ込みました。
そしてソワソワしながら、引き出しの奥から「お互いに何かあったら開ける箱」を引っ張り出したのです。そこには片方に万一のことがあったときに取り出すものを入れていて、自分の親への手紙や、入院保障のついた生命保険の書類などが入っています。
彼氏が自分の親に書いた手紙にだけは触りたくありませんでした。まだ彼氏は死なない。この手紙を渡す時が今だなんて早すぎる。
……死なないで。
小さな箱の中に、猫が2匹「むぎゅっ」と入ってきて、少し笑いました。乾いた笑いが漏れて、そのまま床に置いた箱に頬を寄せて横になり、目を閉じて時間が流れるのを待ちました。早く朝になってほしい、そしたらきっと彼氏は目が覚めていて、「やべーな、おとん来たんかよ〜」なんて困った顔をして、それから……。
彼氏が俺の勤務する医療機関に救急搬送され、昏睡から覚めずにいる。彼氏の父親に同居していたことを伝え、彼氏の妹に睨まれた。
最悪な一日に体験した感情を、頭の中で反芻することで何度も追体験しながら、それでも少しだけは眠れたようでした。午前5時、外はまだ夜に閉じ込められたままでしたが、俺は少し早めに家を出ることにしました。
早く、電子カルテを確認したかったのです。
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